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「あの山に田地を注ぎこんで裸になつたのは三人、わしも知つとる」
練吉は永い間黙つていた。それから、いかにもいやいやな調子で、
房一はむつつりとしたまゝ答へた。
我々はそれから「き」の字橋まで口をきかずに歩いて行ゆきました。……
「別に惜しいほどのことではありませんよ」つづけて、ふいに調子を変へると、
だが、盛子の場合とちがつて、道平のそれはもつと重かつた、そして、もつと直接だつた。これが普通の患者に対するときだと、たゞ聴診器を持つて坐つただけでよかつた。何も考へないで、感じないで済んだ。ところが、道平を診るとなると、この医者らしさがどつかへふつ飛んでしまふのであつた。判断ができないわけではない、だが、判断以上の何かしら得体の知れないものが彼の自信を失はせるのだつた。できることなら、医者としてではなく、単に息子として父親の傍に坐つていたかつた。医者の仕事は誰か他の人に任せてしまひたかつた。
「どうしたい、君はその恰好をまだ見せたい気かい」
房一の顔は重々しい沈思の表情と太い興奮の色とで紅黒く、やはり膏汗が漲つていた。
房一は又重たげな恰好で坂路を登つて行つた。下を見ると、心持阿弥陀あみだに被つた練吉のソフト帽が、もう小さく桑畑の間を走つているところだつた。彼は、練吉の気弱さうでもあり、又疳かんの強さうにも見える眉のあたりの色を、今ごろになつて急にはつきり思ひ出した。
「なあ、ジョン!」
と、敬遠するとも小莫迦にするとも見える頭の下げ方をして、さつさと行つてしまふのであつた。
それらのすべてを通じて何よりも房一の胸を強く打つたものはあたりに行きわたつている静寂とそれを支へている平和な気分であつた。それは見る人の心に微妙な落着きを与へそこに住みたいといふ気を起させ、更に、さう思ふだけですぐに自分の暮しの輪郭や断片などを魅力にみちたものとして想像させる、さういふ或る物だつた。現に、あまり空想家でもない房一の心に一瞬浮んだのはその気持だつた。
「高間さん、ひとつ何とかして引上げさせて下さい。このまゝでは――」