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    「いや、わたくしもね、すぐさう思つたんですが、どうも、こんなところで、思ひがけなかつたもんで――さう、さう、先日は失礼しました、つい出ていたもんですからお目にかかれなくつて、そのうち伺はうと思つていたんですが」

    と訊いた。

    房一はきつぱり云つた。男は、これは話が判る、といふやうな顔をした。それに押つかぶせるやうに、

    熱心になっていた「な」の字さんは多少失望したらしい顔をした。

    それから、彼は薬を塗りたくられ、繃帯をまかれた両手をちよいちよい眺めながら、片足を一方の膝にのつけた坐り方をしたまゝ、いくらか吃どもるやうに、簡単な手短かな話振りで、身の上話らしいものをちつとも身の上話らしくない調子で洩した。息子もさうだつたが、彼の妻も病身で不自由な工事場のバラック住ひが「出けん」もんだから、ずつと神戸在の田舎に置いてある。(さうすると、本妻と妾と二人住まはせているといふ見て来たやうな噂はあてにならないなと、房一は思つた)「わしはこんな荒い人間ぢやから」、バラック住ひも似合ひのところであるが、さすがに息子に死なれてからは、あれの云うとつたとほり「かういふ暮しもあんまりえゝもんぢやないわい」と思ふやうになつた。身のまはりの不自由は何ともないが、年中他国を歩いているので、若いうちはそれも面白かつたが、最近は浮き草のやうなたよりない気がして来た。それで、かうやつて歩いているうちに、どこか人情のいゝ土地でも見つかつたら住みついてもいゝと思つている。さういふことを一わたり話し終ると、彼はいたつて愛想のないその隈取りのやうな皺の表情をちつとも変へずに立上つて、立上るや否やその身体つきには何か強したゝかなごついものが現れ、稍前屈みに、それと共に前方を見据ゑるやうな恰好になつて帰つて行つた。

    と気のない返事をした。

    房一は向ふへ行きかけた。徳次はさつきから云はうとしてまだ云ひ出せずにいることがあつた。それに何と呼びかけていゝかも判らない。房一の姿は段々遠のく。突然、徳次は散々思ひ屈した後に出るあの大胆さで大声に叫んだ。

    徳次は笊を差出した。

    「まあ、とにかく、御迷惑かもしれないが、一度御足労を願ひたいと思つてね」

    練吉はさういふ今泉の足もとを見、更にじろりと皺一つよらない衣裳を見上げた。何か疳にさはつたやうな色が動いた。そして、一言できゆつと相手をへこまさうとする時のやうに、神経的に口を曲げ、今にも云ひ出さうとした時、少し離れたところから手招きしている房一と小谷とに気づいて、そのままそつちへ行つてしまつた。

    房一が入つて来るのを見たとき、練吉の顔には意外だといふ表情が浮かんだ。彼は房一の眼を迎へようとして一層高く頭を持上げたが、房一は気づかなかつたので、やがて、練吉はわざわざ座を立つて近づいて来た。

    小谷は髯のことなんかはよく覚えていなかつたので、曖昧に、気のない返事をした。道平は、さつきは盛子に紅くなるほど笑はれて多少気を悪くしたことではあるが、こんな風に自分が元通りに恢復し、房一の家の縁側に腰を下し、やつて来た人から何やかと話しかけられることに一種のまごつきと期待を現しかけた。だが、小谷には何の反応もなく、その目は又紙衣裳の方へ帰つた。

    「痛むか?」

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